出エジプト14:15−22/Ⅰヨハネ5:6−9/マルコ1:9−11/詩編36:6−10
「すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(マルコ1:11)
お読みいただいたマルコによる福音書1章9節以下は、マルコ福音書の中で初めてイエスが登場する場面です。マルコ福音書にはいわゆるクリスマスの物語はありません。いきなりイザヤの預言の成就としてバプテスマのヨハネが登場します。そしてそのヨハネの下をイエスが訪ねてきたというのが今朝の箇所です。
今幼稚園などでは冬でも水筒を持参しています。コロナが流行ってからは特にそうしているところも増えました。以前は夏場の持参が多かったのですが、それは日本の夏が異常に暑くなってきたことと関係してます。脱水症状は危険を伴うということが概ねどこでも認識されてきたからだと思います。
わたしが部活動に勤しんでいた中学生の頃、もう45年も前でしょうか、その頃運動部は部活の間水を飲むなんて許されませんでした。途中で水を飲むなんて軟弱なことであって、精神の鍛え方が足りないのだと非難されることだったのです。酷暑なんて無い時代でしたから何とかなったかも知れませんが、現代ではそれはすぐ「死」に繋がるとんでもないことです。そういう認識が概ね行き渡ってきていることは大事なことだと思います。人の体の60%は水分だと言います。体重の2%水分が失われただけで不快感に襲われ、6%不足になると頭痛、眠気、脱力感に襲われ情緒が不安定になり、10%不足すると筋肉が痙攣し、循環不全や腎不全を引き起こし、それ以上になると意識が失われ、20%不足で死に至るという報告があります。よく中学時代を生き延びたものです。
水は宗教上でも重要な働きをします。ユダヤ教でも重要でした。マタイ福音書15章でファリサイ派の人たちがイエスを非難する場面があります。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」(15:2)。わたしたちも食事の前に手を洗う人が多いでしょう。それは衛生上の問題がほとんどです。ユダヤでもそうでしょう。でもそれだけでなく、特にファリサイ派の人たちが昔の人の言い伝えを大事にしてきたのは、「食事」が「まじわり」そのものだったから、けがれと交わることは許されなかったのです。だからその場にいる人がみな手を洗う必要があった。「みんなマスクしろ!」みたいなことかも知れませんね。排除と差別の論理としても「水」は重要だったということでしょうか。
しかしそれ以上に、ユダヤの人たちは「水をくぐって命に至る」という民族創世の歴史を誰もが知っていました。出エジプトの記憶です。目の前に紅海、後にエジプト軍が迫る中、神は紅海に道を開いて脱出を導き、エジプト軍を全滅させてくださった。それゆえ今の繁栄がある。それは強烈な記憶として語り継がれてきていたのでしょう。そうやって歴史を歩んできたイスラエルは、神によって選ばれた特別な民です。だから男子は皆そのしるしとして割礼を受けていました。神との関係を正しいものにするために洗礼を受けるなんて、する必要はなかったのです。
ところがバプテスマのヨハネのところに大勢の人がやって来て、彼から洗礼を受けていたのでした。なぜそうだったのかについてマルコ福音書は全く何も記しません。大事なことは、水で洗わなければ神との契約が破られるとか、契約から漏れるということはない。イスラエルの人たちは皆そのことがわかっていたが、しかしあえてヨハネから洗礼を受けることで、それを自分の身に帯びようと考えた人がたくさんいたということでしょう。イエスもそういう一人だったのです。
しかしそのイエスが水から上がると、神の声が聞こえてきた。そしてそこから彼は人々に神のことを告げる者の一人になったのでした。マルコはこれこそイエス登場の物語だというのです。生まれ方が異常だったとか、神がかっていたとかではなく、一人の青年イエスがこの時神から選ばれたと告げているのです。イエスの洗礼は言葉を変えればイエスの召命です。神によって召し出された瞬間だった。
この教会に小川和孝神学生がいます。聖書研究祈祷会の時に何度か小川さんの召命物語を参加者は聞きました。神学校の門をたたくとき、有り体に言えば入学試験と面接でおそらく「あなたの召命感」が聞かれます。日本基督教団の教師になる試験の時も面接でそれが問われたりします。わたしも問われた経験があり、答えた記憶がありますが、実際のところわたしに限っては「召命」なんて言うほどのドラマティックなことは何もありません。敢えて召命感と問うならこういう経験をしてきたことかも、という類のことしか答えられませんでした。明確ではなかったのです。でも、明らかなことはひとつだけあります。召されたかどうかは明らかではないけど、少なくともこの仕事に30年以上携わり続けているという事実です。三日坊主のわたしが、ですよ。
イエスは神の声を受けていっとき荒野に退きますが、その後いわゆる公生涯に進み、マルコ福音書によればわずか一年足らずで十字架で殺されます。ヨハネ福音書の記述をとってみても三年弱でしょう。そういう召命もあるのだなぁと思います。そして召命は牧師の専売特許ではありません。皆さんの生涯にも「神に呼ばれた」という以外表現できないことがあったのです。明確なことかも知れませんし不明確なことかも知れません。ドラマティックだったか、そうではなかったかわかりません。でもあったのです。神の声を聞いたときが。それが今、私たちを生かしているのです。
その事実を思い起こし、感謝を捧げましょう。今もその声が私たちを活かしている。その声がわたしたちを用いているのです。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたがわたしを呼び出してくださった故に、わたしは今こうしてここにいます。今朝もあなたはわたしたちみんなを呼び起こしてくださいました。一緒に礼拝をするこの時を与えてくださいました。その声によってわたしたちは活かされているのです。その声を選び取り、その声に聴き従う者とならせてください。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。